「ピオーネ」生みの親・井川秀雄について

井川秀雄(明治29年4月25日生まれ‐昭和61年11月25日没)は、伊豆長岡町(現在の伊豆の国市)小坂生まれ。伊豆市中伊豆でブドウの交配・育種によって「巨峰」を生み出した大井上靖氏(明治25年~昭和27年)の研究所に通い葡萄への情熱に駆り立てられるようになりました。

 

日本の気候風土でしっかり栽培でき、また、巨峰に勝る優良種を目指し、生涯で1,000種類以上ものブドウを育種しました。昭和32年(1957年)井川秀雄61歳の時、巨峰とカノンホール・マスカットの交配により、ようやく理想とするブドウ「ピオーネ」(最初の名はパイオニア、後にイタリア語のピオーネで登録)の誕生を見ることができました。

しかし、その後は後継者もなかったため、ブドウ畑は交配が進み、樹齢30~40年の17本を残すのみとなりました。

 

新品種の開発では、第二次世界大戦前までのコンコード、ナイアガラ、アジロンダック、甲州、デラウエア、キャンベルアーリー、マスカットベリーA、ネオマスカットにとってかわって多くの有望な品種が育成されました。

 

井川秀雄の生い立ち

明治29年4月25日、静岡県川西村(現、伊豆の国市)小坂で、井川徳次郎、しんの三男三女の長男として生まれた。徳次郎は常に囲炉裏に焚き火をして年中読書に熱中し、気が向けば鍬を取る程度で、全く家業を顧みなかった。そのため秀雄は、奨弘尋常高等小学校卒業後、14歳にして父に代わって1ヘクタール余りの田畑の農業経営に当たらねばならなかった。

 

園芸に興味を持ち、屋敷内の畑にコンクリートで12列24個のフレームを作り、油紙の障子をかけ、この頃この地方では全く見られないような促成栽培も始めた。新しく西洋野菜も手がけ、カリフラワーも作り、キュウリ、ナスなどの野菜苗を作って促成栽培し、よい値段で出荷して家計を支えた。

果樹もカキ、ミカン、ナシ、ブドウなども試作し、「伊豆の誉」というナシの育種に成功している。大正7年1月、田中村(現、伊豆の国市)田京より1歳年下の津々野なかと結婚した。

 

「巨峰」を作った大井上とは、関東大震災(大正12年9月1日)の頃、下大見村白岩の親戚の見舞に行った時、同地にある大井上理農学研究所を訪れたのが最初の出会いであった。

 

その後、30歳になった頃、6月に大井上理農学研究所へ行ったところ、「今日ブドウの交配をするから見ていくように」と言われ、まず花帽の取り方、雄花の除去、そして雌花への交配等を教わった。その時「作りやすく、そして抗病性の強いものを母方に選び、品質優良の品種を父方として使用することが良い」と教えられた。 

 

井川秀雄にとって不幸なことは長男肇が昭和27年5月、34歳の若さで亡くなったことだった。肇は秀雄の強い要望により、農業後継者たるべく、親戚や周囲の反対を押し切って、小学校高等科卒業と同時に静岡県立田方農学校合格を取り消し、大井上理農学研究所へ入所した。

 

この研究所は3ヵ年の合宿生活であり、肇は昭和8年から11年まで学んだ。この間、秀雄は息子の様子を見に幾度も研究所を訪れ、大井上の指導を受けた。

 

 肇は大東亜戦争が勃発するとやがて召集され、静岡連隊に入り、衛生兵として南京に出征し、現地の病理学研究室に勤務し、ここで長野県茅野市出身の日赤従軍看護婦の竹内公と知り合いのちに結婚した。

 

終戦後は小坂の家に帰り父の農業を助けることになった。肇は公との間に3女をもうけた。

ピオーネほか新品種の育成

井川の孤独な研究、ブドウの交配育種は肇の死を契機として本格的に始まった。

昭和32年あたりからどうやら交配に自信を得、生涯に実に1,110品種を育成した。そのうち名前の付いている品種は、ヤシマ、天城、クロシオ、竜峰、ハヤブサ、ピオーネ、イカワオパレー、国宝、紅瑞宝、紅富士、紅伊豆、ハニーレッド、伊豆錦、峯寿、紅井川、天秀など30余りにのぼる。

 

これだけ多くの交配が出来たのは、ブドウは果樹のなかでも比較的交配後2,3年の短い期間で結実することと、たまたま国立遺伝学研究所の木原均博士が井川の家にきて、花粉の貯蔵法を教えて貰ったことだった。品種によって開花期が違うがこれは目的の花粉を予め採集して乾燥剤とともに貯蔵しておき必要の時取り出して交配するようにしたからだった。

 

ピオーネは井川の育成した品種のなかでも最高傑作と言われ、いまでも強い人気を博している。巨峰にマスカット・オブ・アレキサンドリアの4倍体変芽カノンホール・マスカットを交配して育成された。カノンホール・マスカットは静岡県有用植物園の園長の古里和夫に昭和28年穂木を譲り受け、昭和32年6月に交配、昭和48年に種苗登録された。No.210。

 

昭和43年、富士山の前にある有名な愛鷹山からアシタカと名付けたが、あまりにも地方的な名前なので、土屋長男がパイオニアのちにピオーネと改名した。

 

ピオーネは、現在でも日本の大粒ブドウの中で巨峰についで多く栽培されている。巨峰以上に樹勢は強く花振いしやすいがジベレリンの発達で着粒はよくなり、長梢せん定から短梢せん定への変更が可能となった。紫黒色品種、肉質は締まり食味良好で糖度高く完熟させれば21度になる。果粉が多く果皮は強く裂果も少ない。耐病性はやや弱く丁寧な防除が必要である。日持ち、脱粒性はよい。豊産性。14~20gの巨大粒で巨峰より大きい。熟期は8月下旬~9月上旬。

 

交配の理論と戻し交配

井川は晩年、ブドウの品種と特性について次のように述べた。

「ブドウ交配についてつくづく感じたことは、ブドウは生き物である以上、如何に生き、そして子孫(種子)を残す為には、ブドウ自身から進んで我が国の気候風土に馴染まなくてはよい結果が得られないが、交配を重ねるとはっきりとその点を見取ることが出来ることである。それで今までは良い親、即ち欧州系の高級種を組み合わせて交配すると抗病性が劣る道理であったが、交配を重ねること(いわゆる井川のいう戻し交配)によって、抗病性が益々強くなってくるので、交配育種ということが如何に大切であるかを痛切に感じさせられる」。

 

育種開始当初の無茶苦茶の交配から体得された井川の交配理論である。それは大井上に教えられた理論、「作りやすく、そして抗病性の強いものを母方に選び、品質優良の品種を父方に使用するがよい」と教示されたことをもう一歩進めて実行してきた井川の感慨である。

 

井川秀雄を支えた人々

井川が初めて中央で「井川系ブドウ」について発表したのは、昭和36年8月20日、東京都国立市の農業科学研究所で行われた日本葡萄品種愛好会発足相談会の席上であった。

 

それまでに井川が情熱を傾けて交配育種したものが、次々と結果し始めた草創期の時期であった。当時の日本葡萄産業界は、ほとんどデラ、キャン、甲州、ネオマスの世界で、ようやく巨峰が僅かに頭角を現し初めた頃であった。より高い品種を求めて苦闘した井川の交配品種を発表したが、なかなか世に認められなかった(200号以前の作品 井川ブドウ協会創刊号より)。

 

井川の玄関前に大きな自然石の顕彰碑が建っている。

 

誰が何と言っても やって見なければ わからない

井川秀雄 訓

 

と縦書三行刻まれている。 

日本葡萄品種愛好会が井川の緑白綬有功賞を授与された記念として昭和48年2月11日に建立したものである。ブドウ交配育種においては第一人者でありながら、その自信に安住することなく、よりよいものを求めて止まない、明日を夢見る若者のようなひたむきな情熱を燃やし続ける生きざまを示している。

 

育種貧乏を地で行く井川を助けたのは、昭和48年、ピオーネの権利を山梨県果樹園芸会に譲渡し、種苗登録できたことだった。また、昭和53年、井川を助けようとした人々が井川ブドウ協会を立ち上げ、特に伊豆錦の権利を購入して、業者に苗木生産を委託し、できた苗木を販売して研究費を助成した。

 

伊豆の国市南江間の鴨下繁利は教職を退いてのち、昭和50年より井川に師事し、伊豆長岡町ブドウ研究会及び伊豆ブドウ組合を立ち上げ、井川を助け「井川系ブドウの系譜」を著した(昭和58年1月)。

 

引用文献 井川系ブドウの系譜 

鴨下繁利・井川秀雄・土屋長男

敬称略

とりまとめ 井川ぶどう研究会 落合俊二


井川系ブドウの発展

井川秀雄のブドウにかける情熱から生まれた数々の品種のブドウは、今では「井川系ブドウ」と呼ばれ、全国で広く育種・栽培されています。

ピオーネの親となったブドウの王様「巨峰」もまた、中伊豆(現在の伊豆市)の大井上理学研究所で生まれ、そこから見える富士山の雄大な景観にちなんで「巨峰」と名付けられました。

 

明治期殖産興業の、旗印の下に始まった本格的なブドウ栽培から百余年、ブドウは日本の代表的な農産物となりました。

 

ブドウの房に似た伊豆半島。ここを発祥とする「大粒ブドウ」は、アジアを中心にその輸出量を伸ばしています。